反出生主義に対する反論は、あまりにも浅はかなものばかりである。
・社会が維持できない
・生物としての義務に反する
・子供を産んで幸せな人生を生きることが、人間として自然だ
反出生主義に対する反論としては、上記のようなものばかりである。いずれも、「自分もしくは人類の利益」か「産むことが生物として自然なことであり、それに従う義務があるという妄想あるいは洗脳」に基づいた考えなのであって、「産まれる人間の利益や不利益」に対する発想が一切ないのである。上記のような反論を主張する者は、全体主義者だとしか言いようがない。
出産を肯定し、反出産を否定する者に問う。仮に、あなたが産むことになる子供が、必ず女子高生コンクリート詰め殺人事件の被害者と同じような目(以下「凄惨な事件」と表記する)に遭うことが確定している場合、あなたは子供を産むことを肯定するだろうか。もしこの問いにあなたがYESと答えるならば、私はあなたを悪魔だと断定せざるを得ない。
では、あなたが産んだ子供が2分の1の確率で凄惨な事件に遭う場合はどうだろうか。この場合も、あなたの答えがYESであればやはり私はあなたを悪魔だと断定せざるを得ない。
それでは、100分の1、1000分の1,1万分の1の確率であったならどうか?出産を肯定し、反出産を否定するあなたの答えは当然にYESであろう。その場合、私はあなたを悪魔と呼ぶのは憚られるにしても、あなたに同意することはできない。問題の本質は先ほどと変わらないからである。その本質とは、「あなたが産んだ人間が凄惨な事件に遭う可能性がある」ということである。
出産という行為をなぜそんなに問題にするのかがまだピンと来ない人は、例えとして死刑執行のボタンを押す刑務官をイメージしてほしい。死刑執行のボタンは複数人が押し、誰が「正解」のボタンを押したかは分からないようになっている。それによって、殺人の罪悪感が軽減されるというわけである。
出産というボタンを押す場合に、あなたが産んだ子供が凄惨な事件に遭うことが確定していることが事前に分かっているなら、ボタンを押すあなたの罪悪感は尋常ではないことになろう。だが、実際にはボタンを押す際には凄惨な事件に遭うのがあなたが産む子供だとは確定していない。あなたが産む子供の可能性もあるし、あなた以外が産む子供の可能性もある。要するに、世界中の人間が出産というボタンを押すのであるが、凄惨な事件に遭う子供の出産という「正解」のボタンを誰が押しているかは分からない状況なのである。それによってあなたは出産というボタンを押すことの罪悪感が薄められ、他人が凄惨な事件に遭ったニュースを見て、自分のボタンが「正解」でなくて良かった、と思うわけである。
殺人犯に対する死刑執行ボタンなら私も一緒になって押せるが、いまだ罪のない人間に対する出産ボタンを、私は到底押すことなどできない。なお、出産ボタンによって、産まれた人間は確実に死ななければならなくなるのであるから、その意味においては、例えではなく出産は常に「正解」の時限式の死刑執行ボタンである。