これまでのブログを読んでくれた方は、反出生主義者は出産を罪と考えている1ことが理解できるだろう。生まれなければデメリットはなかったのに、生まれたせいでデメリットを与えられることになるのであるから。だから、「誰のおかげで飯が食えると思っているんだ」とか、「親に向かってなんだその口の聞き方は」とか言う輩がいるが、加害者が被害者に何を偉そうに言っているのか、と私は常々思う2。
出産は罪、という考え方に拒否反応を示す人は多いだろうが、少なくとも、キリスト教の原罪の思想よりは、はるかに理性的な考え方であるのは明らかである。反出生主義の立場に限らず、行為をした方(産んだ方)ではなく、行為をされた方(産まれた方)が罪、と考えるのが異常なのは説明するまでもない3。産むことを善とするために、産まれた側を悪とする「価値の転倒」が行われるわけである。
なお、出産を罪と考えたり、出産を否定したりする議論の際に気をつけなければならないのが、特定の個人の出産についてのみ論じることには極めて慎重にならなければいけない、ということである。
よくネットニュースなどで、妊娠・出産した親の年齢や職業・経歴などから、「子供がかわいそう」といった批判がされることがある4。この批判は、出産を否定するわけだから反出生主義の一種のようにも見えるが、「ある人間は産んでいいが、ある人間は産んではいけない」というのは反出生主義ではない。全ての人間が産むべきではない、というのが反出生主義であって、恣意的・差別的に人から自由を奪う類のものではない5。
罪、という観点から、次回は出産を犯罪として処罰することについて検討する。
- 産んで赤ん坊を死なせた場合に女性ばかりが逮捕されるニュースをよく見かけるから、また女性ばかり咎められるのか、と思った人もいるかもしれないが、出産は女性のみですることはできないので、男性も当然に罪を負う。 ↩︎
- なお、輪廻があることを前提とした場合においては、ちゃんと育ててくれた親に感謝する考え方もできるので、親に感謝することを一律に否定するつもりはない。このことについては、機会があれば詳しく述べようと思う。 ↩︎
- 原罪の考え方は、例えるならば、非文明的な国において、レイプされた被害者を処罰するのと同じ考え方と断言して良いだろう。 ↩︎
- 余談だが、この議論の際に「本人達が納得しているのだから、部外者が口を出すべきではない」という意見をよく目にする。この話題での一番の「本人」とは、どう考えても「産まれる人間」なのは明らかなのであるが、一体いつその人が納得したというのだろうか。このような意見を目にするたびに、私以外の人間は「産まれる側の立場に立った視点」を持たないのだろうかと、悲しい気持ちになる。 ↩︎
- 貧困者や障害者なども、とかくこの手の差別を受けやすい。確かに、産む側の環境等が、産まれる人間が置かれる環境の良し悪しに影響を与える可能性は否定できないようにも思える。だがここでもう一度女子高生コンクリート詰め殺人事件の例を思い出してほしい。産む側の環境は、産まれる側にとっては本質的には関係がないことなのである。例え産む人間が健康で裕福で素晴らしい人格者だったとしても、産まれた人間が地獄を味わう可能性は決してゼロにはならないのである。
なお、耳が聞こえない両親が、耳が聞こえる子供に手話を教えて、「耳が聞こえる世界でばかり暮らすと偏ってしまう」という趣旨の発言をしているテレビ番組を見たことがあるが、この発言に対しては強い不快感を覚える。自分のためにしてもらって当たり前と思わないでもらいたい。障害があることをもって直ちに出産を否定すべきではないが、子が自分達のために手話を覚えて毎日使ってくれているのであれば、子への感謝の心を忘れてはならないと私は思う。
その他、子供を自分の好き勝手に育てようとする親をネットニュースなどで見かけると、正直なところ、出産を国家の許可制にすべきではないだろうか、という感情が湧いてくることもあるが、産まれる人間の幸不幸の判断などできないのであるから、やはり「産んで良い人間と産んではいけない人間の峻別」には極めて慎重になるべきである。 ↩︎