出産の罪について②

反出生主義

 日本に限らずほとんどの国において出産は自由であり、犯罪とされることはない1。だから、人身売買のために出産しようとも、性的虐待をするために出産しようとも、出産そのものについて処罰されることはない。

 これを、殺人行為と比較して考えてみよう。殺人行為は「存在している人間を存在しない者に変化させる行為」である一方、出産行為は「存在していない者を存在する人間に変化させる行為」であり、ベクトルの違いはあれども本質的に同質の行為だと言えるからである。

 殺人行為は、殺人罪として処罰される。一方、出産行為は処罰されない。だから、出産工場で人間を大量生産していても、監禁等の他の犯罪に該当することさえなければ、いくらでも出産し放題なわけである。

 両者のこの違いは、言うまでもなく、出産や誕生を社会が「善」と妄信していることによる2。反出生主義を突き詰めた社会であれば、全ての出産を犯罪として処罰することが当然に想定されるが、そこまでではなくとも出産や誕生の「善」性を多少なりとも疑う社会であれば、出産工場での出産行為くらいは処罰対象にしているはずだからである3

 私が反出生主義者だから誤解されるだろうが、私は何も全ての出産行為を処罰対象にすべきだと考えているわけではない。それは共産主義のように、現実性のある政策ではないからである。処罰の仕方としては例えば、人身売買や性的虐待など、出産後の行為について処罰する時に、出産行為自体がそのような不法な目的をもって行われたときに限って、出産行為についても処罰するというものが考えられるが、これは立法技術的にも可能であろう4

 国が、虐待を放置することと、虐待する相手を作るための出産行為を放置することとの違いを明確に説明することができる者がいるなら、ぜひ説明してもらいたいものである。

  1. 中国で行われていた一人っ子政策のようなものはここでは無視してもらいたい。あれは国家のための政策に過ぎないのであって、生まれないことを「当人」のためとする反出生主義とは全く関係がないからである。 ↩︎
  2.  あるいは、生まれる人間を駒として社会を維持するために、「善」だと社会が信じ込もう、信じ込ませようとしていることによる、と言った方が適切かもしれない。 ↩︎
  3. よく「命の大切さ」などと言われるが、これは殺人行為に対してはそれを否定するために使われる一方、出産行為に対してはそれを肯定するために使われる言葉である。ここにも出産や誕生を「善」と妄信している証拠が見て取れる。私は、命が大切だから、というより、命が極めて重大なものであるから、出産行為について制限をかけることをもっと真剣に考えるべきだと、常々思っている。私には、社会の考える「命の大切さ」というものが、殺人行為はだめだが出産行為であればそれがどんな目的であろうといくらでも出産し放題、というものだとしか思えないが、それが命を大切にしている姿勢だとは到底思えないのである。 ↩︎
  4. 厳密にいうと、出産行為自体は自然に起こるものであるから、故意犯として処罰の対象となる行為は性交、ということになるだろう。 ↩︎
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