反出生主義は、生まれたくなかった人にしか関係のない話なのか

反出生主義

 前回、反出生主義の概要について述べたが、「生まれたくなかった」と思っている人が、自分と同じ思いをさせないために「子を産むべきではない」と考えることはなんとなく理解できただろう。では、それは幸せに生きてきた人には関係のない話なのだろうか。

 私はこの問題について考えるとき、いつも女子高生コンクリート詰め殺人事件が頭をよぎる。この事件は日本の殺人事件史の中でも凄惨極まりない事件であり、極力内容を思い出すこともしたくないので、知らない方は自分で調べてもらいたい。反出生主義との関連で述べると、この事件の被害者1がこのような地獄を味わうことになったのは、生まれたからである。もちろん、生まれれば必ずこのような目に遭うわけではないので、生まれなければこのような地獄を味わうことはなかった、と言った方がより適切であろう。産んだ人間が幸せに生きてきたかどうかは、その結論に一切影響を与えない。つまり、産む側の人間が幸せに生きてきたか苦しんで生きてきたかは、産まれる側の人間にとっては実は全く関係のないことなのである。

 つまるところ、産む側の人間が幸せに生きてきたにせよ、当該被害者のような目に遭う人間が一人でも存在し得てしまうのであれば、出産を肯定することはできない、と私は考えている。だがそう言われても、生まれた大多数の人はこのような目に遭うことなく生きているのだから、このような目に遭う人が存在し得ることをもって、生まれることを一般的に否定するのは飛躍し過ぎではないか、と考える読者がほとんどであろう。

 はっきり言ってしまうと、それは「そのような目に遭う人がいるのは仕方がない」という意見である。その意見が一考の価値を持つ意見となり得るのは、自分の娘が同じ目に遭ってもなお同じ意見を発する人のみである。もしその場合に意見が変わるというのであれば、それは予見し得ることについての想像が足りていないだけだからである。あるいは「他人がそのような目に遭う分には構わない」という意見であり、そのような人は、他者を思いやる心から生じる反出生主義思想に理解が及ぶことは生涯に渡ってないことだろう。

 先ほど述べたように、私は、当該被害者のような目に遭う人が一人でもいるなら、子を産むことは肯定され得ないと考えている。よりはっきりと言ってしまえば、一人もこの世に存在しない方が望ましい、と考えている。誰も苦しまずに済むのは確実なのであるから。このように、反出生主義という思想は、人類の滅亡をその論理的帰結として内包しているのである2

 この考え方に対しては無数の反論や拒否反応が容易に想定されるので、次回はその反論とそれに対する再反論を検討することとする。

  1. 以下、「当該被害者」と表記する。 ↩︎
  2. 人類の滅亡を意欲的に目指すことには意味がない、と私は考えている。その理由はいずれ機会があれば述べることにしよう。 ↩︎
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