少子化対策と称して出産を奨励している国においては、安楽死を制度化すべき道義的な責任がある。
なぜかというと、国が「産めや増やせや」と言っておきながら、いざ産まれた人間の人生が、苦悩に満ちたものであったり、難病で常に苦しんでいるようなものであったりして地獄だったにも関わらず、国が「死ぬのは手伝わないから後はご勝手に」と言うのでは、あまりにも無責任で身勝手で人外の行いだと言えるのは明らかだからである1。安楽死は、現実的に可能な範囲で、産まれた人間が出産を拒絶することを国が保障する唯一の方法なのである。
老老介護等の末に、「もう殺してくれ」と頼んだ配偶者を殺してあげた人を偉そうにも国が裁いて処罰するが、裁かれるべきは安楽死を制度化していない国なのである。国がすべきことを代わりにしてもらっておきながら、その人を処罰するなど厚顔無恥も甚だしい。
なお、安楽死を制度化することは社会的にもメリットが多い。電車に飛び込むといった死に方が減ることも当然に考えられるし、死にたい人のために医療費や生活保護費などで無駄な公金を使わずに済むのである。そもそも、不治の病で常に体中が痛くて死にたい、と言っている人に延々薬を使い続けて苦しみを享受させ続けるのは、大量に公金を使って無実の人間を拷問し続けることと一体何が違うというのだろうか2。
以上のように、倫理的にも社会政策的にも国が安楽死を制度化すべきであるのは明らかであるのに、生は死よりも、生まれないことよりも、その他どんなものよりも優れた価値を持つと狂信している者たちのせいで、日本においてはいつまで経っても制度化の議論すら始まらないことを心から嘆かわしく思う。
- 「生まれないことと、死ぬことの違い」の注釈で出した例えで言うと、人を無理やり5000キロ離れた場所に連れて行くことを国が推奨し、帰る費用の補助金を1円も出さないようなものである。
日本人が安楽死するためには、スイスなどの外国に行って大金を払わなければならないが、日本という国家は外国に尻拭いをしてもらっているわけである。 ↩︎ - 難病に苦しんでいながら、安楽死を制度化することに反対する人を、ニュースで見かけることがある。その人は、自分の価値観を人に押し付けているだけである。安楽死を制度化するということは、生きたい人と死にたい人の願いをどちらも叶えるということである。生きたい人の願いしか認めないというのは差別に過ぎない。 ↩︎