生まれないことと、死ぬことの違い

反出生主義

 反出生主義の話をすると、物を考えていない人間はすぐに、「じゃあ早く死んだら?」などと言う。物を考えている人間からするとこの発言は、「おなかが空いた」「じゃあ漂白剤入れ替えたら?」という会話と同じくらい、まったく意味をなしていない発言であることが分かっている。

 生まれなければ、死ぬことはない。つまり、「生まれないこと」と「死ぬこと」が両立することは絶対にない。一方、生まれれば、必ず死ぬ。つまり、「生まれること」と「死ぬこと」は両立するどころか、必ずセットになっているものだということは明らかである。

 だから「生まれたくなかった」という言葉は「死にたくなかった」という意味を指すことはあっても、「死にたい」という意味を指すはずがない1。先の、物を考えていない人間の発言は、むしろ、出産・誕生を肯定する者に対して、「そんなに人を死なせたいの?」とか、「そんなに死にたいの?」と言うのであれば、それは意味をなしていると言える。

 生まれなければ、死ぬことはない。死を回避するためには、生まれない以外に方法はない。死にたくない人は、反出生主義思想を持つことが論理的帰結なのである。いや失礼、自分は死にたくないが、自分の子は死んでもいい、と考えている人には当てはまらないか。

  1. 生まれたくなかったと思っている人は、辛い人生を生きてきた人がほとんどであろう。運の良い、幸せな人生を生きてきた人が「生まれたくなかった」と思うことはなかなか想定し難いからだ。したがって、元々「生まれたくなかった」と考えてきた人が、生きているのが辛いからもう死にたい、と考えるようになることは当然あり得るが、「生まれたくなかった」という考えから「死にたい」という考えが直接導かれるものではない。生まれなければそもそも死ぬ必要はなかったのであるから。このことをもう少し理解してもらうために、次のような例えはどうだろう。
     「家でごろごろしていたかった」という人を、無理やり5000キロ離れた場所に連れて行き、置き去りにしたとする。置き去りにした人はこう言うのである。「家でごろごろしたかったのなら、早く帰れば?」と。置き去りにされた人は無一文で、家に帰るためには5000キロ歩かなければならない。そこでその人は、「家でごろごろしていたかったけど、5000キロ歩いて帰りたいわけじゃない。家ほどは落ち着かなくても、この辺にある小屋でごろごろしよう」と思うわけである。
     例えが適切かやや心配な気持ちもあるが、「生まれる前の状態に可能な限り近づくためには死ぬしかないが、その行動は苦を伴うものであり、生まれなければその苦は必要なかった」ということを理解する上で、それほど悪くない例えだと私は思うが、いかがだろうか。 ↩︎
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