頭がいいとはどういうことか②

ブレイクタイム

 よくネットニュースで、たった一つのこのことさえ抑えておけばOK、という趣旨のタイトルを見かけることがある。

 頭の悪い人間は、とかく物事を単純化したがる。もちろん、物理の公式のように、一見複雑なものを単純化できるならばそれに越したことはないし、頭がいいからそのように単純化できるという場合もある。しかし実際は、単純化できない物事を単純化しようとする者が非常に多い。

 「イエスかノーで答えよ」という物言いをよく聞くが、これが典型的な例である。例えば、「人を殺してはいけないか」という問に対して、イエスかノーで答えることはまずできないはずなのである。「イエス」と答える者が多いだろうが、その者も、死刑や正当防衛のケースでは「ノー」と答えることが多いのは経験上明らかである。戦争で徴兵されて敵兵を目前にした人のケース、も含んで良いだろう。

 単純化できないものはもちろんこれだけではなく、多くの物事について、実は場合分けが必要なのであり、頭のいい人間は常に場合分けをして物を考えている。だから討論のようなものに私は肯定的な印象を持っていない。討論では「イエスかノーで答えよ」とまくし立てる馬鹿が優勢かのような印象を与えてしまう。頭のいい人間は場合分けをして考えているのであるが、討論では「Aの場合は~。Bの場合は~。」というように話す時間がない。だから頭のいい人間は討論などをせず、文章を記すことをお勧めする。馬鹿の相手をすることには、デメリットしかないのだから。

 ちなみにこの場合分けの話は、法学を勉強すると判例で実感することができる。判例では、「特段の事情がない限りA」といった制限を付すことが多い。これが場合分けである。つまり、「必ずA」と断言することなく、「場合によってはAではないこともある」と言っているわけである。ネットニュースのコメント欄では、このような場合分けができていない馬鹿な意見ばかりを見かけるから、少なくとも高校の文系では数学よりも法学を必修科目にして欲しいと常々思っているが、その話は機会があれば述べることとしよう。

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