哲学をする人に対して、必ずと言っていいほど問われる質問である。
この質問は、哲学が社会で役に立たないように思われていることから来る質問である。
この質問に対しては、
「漫画は何の役に立つのか」
「映画は何の役に立つのか」
「犬を飼うことは何の役に立つのか」
と返して煙に巻くのでも構わない気がするが、私なりに真面目に答えてみようと思う。
確かに、ITや法律やFPや簿記の勉強をすることに比べたら、一見すると哲学を学ぶことは社会で役に立たないようにも見える。
だが私は断言する。哲学を学ぶことは、それらの何を学ぶよりもはるかに社会で役に立つ。
なぜなら、哲学は「今、生きている状態を維持すること」に役立つからである。
ソクラテスは、「哲学は死の練習」と言った。
死に備えることも無駄ではない。だがそれよりも哲学が役に立つのは、特にショーペンハウアーの厭世哲学を念頭に、「今、生きている状態を維持すること」においてである。今、生きていることができなければ、ITや法律の勉強をすることもできない。つまり、哲学を学ぶことは、それらを学ぶことの前提として必要となるものなのである。それらの何を学ぶよりもはるかに社会で役に立つ、と先ほど言ったのは、そういう意味である。
10年ほど前に、東大卒の大企業勤めの新卒女性が過労(だけではないだろうが)により自殺した。
私は、もし彼女がショーペンハウアーを学び、その思想を正しく理解し、受け入れていたならば、自殺しなかったのではないだろうかと、悔やまれてならない。なぜなら、私は20歳以降、ずっと人から苦しめられ、あらゆる努力が報われない地獄の人生を生きてきたが、ショーペンハウアーを学んで人生を諦めていたことによって、これまで自殺せずに生き永らえてきたからである。
ショーペンハウアーの思想をかみ砕いて要約すると、次のようなものである。
「この世界は、生まれない方が良い最悪の世界だ。だが生まれた以上、生きるしかない。ではどうすれば苦しみを最小限にして生きていけるのか。それは諦念、すなわち人生を諦めることである。」
この考え方は、日本人には馴染みやすいものであることにお気づきだろうか。そう、仏陀の思想と基本的に同じなのである。
一切皆苦、禁欲、涅槃といった仏陀の思想を、論理的に解説したものがショーペンハウアーの思想だと言って、ほとんど差し支えないだろう。
ショーペンハウアーという名前を聞いたことがある人は、厭世思想家として、自殺を勧めた哲学者だと誤解している人も少なくないだろう。だが先ほどの要約をよく読んで欲しい。ショーペンハウアーは、苦しみを最小限にして「生きる」ことを説いたのであって、自殺を勧めたことなどない。この苦しみの世界で、どうしたらできるだけ苦しまずに「生きられるか」を説いたのである。そのための方法が、諦念、すなわち人生を諦めることである。
なぜ諦念が必要かと言うと、欲望や希望が満たされないところに苦しみが生じるからである。食欲のような身体的な欲望だけでなく、恋愛のような性欲、人に認められたいという類の欲望に至るまで、全ての欲望に当てはまることは20年も生きれば当然に理解できることであろう。
ショーペンハウアーは、これらを諦めろと言っているのである。なぜなら、これらは「苦しまずに生きる」ための対極にあるものだからである。恋愛が成就せず、相手を刺し殺した犯人が自殺する、というニュースをたまに見かけるが、これが典型的な例である。恋愛を諦めていれば、こうはなっていない。他にも、会社でエリート街道を登っていたが、ミスや策略で降格・左遷・解雇させられた人が自殺する、ということもある。人気のある芸能人が自殺することもある。彼らの本心を具体的に代弁することはとてもできないが、一般的・抽象的に考えて、自分の願い・理想が叶わないことを苦に自殺したのだろう、と考えることはできる。そもそも不治の病でもない限り、これらで自殺した人は、まだ生きている状態を維持できたはずなのに、自殺を選択したのである。つまり、「生きている状態を維持する」ことが、精神的な理由、すなわち欲望や希望が満たされないことによる苦しみによって、不可能となったのだと考えられるのである。
私は人生を諦めることは、他の何よりも生を優先すること、すなわち、「今、生きている状態を維持すること」であると捉えている。人生を諦めた先に残るのは、「生」のみである。これを認識することが、ショーペンハウアーを学ぶこと、元々のテーマで言えば哲学を学ぶことの、最大の意義だと私は考える。
もしも彼女が、人生を諦めることの意義を認識していたら、自殺しなかったかもしれない。東大卒で大企業に勤めている新卒者が辞職という決断をするのは、並大抵のことではない。東大卒で元国家公務員の私には良く分かる。苦労してせっかく手に入れたものを手放すのは難しい、というのあるだろうし、親に苦労を掛けて得られたものであるから、諦めるわけにはいかない、という気持ちもあるだろう。そうであるから、「人生を諦める」という決断ができず、彼女は辞職できなかったのだと、私は思う。その意味において、「夢は叶う」だの、「諦めないことが何よりも大事」などとしか言わない社会が、彼女を殺す手助けをしたのだと、私は考えている。
人生を諦めることは、他の何よりも生を優先することである。だから、東大卒で大企業に勤めているよりも、辞職して中小企業に勤めて「生きる」ことを私は推奨する。あるいは、生活保護を受けて「生きる」ことを私は推奨する。あるいは、実家でごろごろして「生きる」ことを私は推奨する。風俗で働いて「生きる」ことを本人が選択するのであれば、私はそうやって「生きる」ことを推奨する。生活保護や単純労働など、他のことによって「生きる」ことを選択できるならそうすれば良いが、そのような方法では「生きる」ことを選択できない人もいる。このような場合に、風俗によって「生きる」ことを否定する第三者は、「風俗で働くよりも死が尊重されるべき」と主張しているのと同じであるから、全く賛同できない。生を他の何よりも優先する意識がない、と言わざるを得ない。
私は20歳以降、地獄の人生を生きてきたが、20年以上生き抜けてこられたのは、人生を諦めていたからである。すなわち、他の何よりも生を優先していたからである。東大卒でありながら国家二種の裁判所の職員になったり、法律系事務所の事務員になったのもそうである。普通、東大卒と聞くと、大企業か官僚として勤めているもの、と思うだろう。だが、そんなプライドのようなものは最初から捨てなければ、裁判所の新卒時代に上司のパワハラに耐えて「生きる」ことはできなかったし、裁判官や検察官や弁護士から顎で使われる立場で「生きる」ことはできなかったし、延々続く地方回りと過重労働に耐えて「生きる」ことはできなかったし、30代後半を法律系事務所のただの事務員として年収200万円代で「生きる」ことはできなかった。
私はそれらの仕事を辞めた。理由を細かく説明することはここでは省くが、結婚したかったからである。つまり、人生に希望を持ったからである。そのせいで、現在無収入となり、以前より生きることが困難になってきている。やはり、人生を諦めることは、他の何よりも生を優先することだと、私が20年以上前に悟ったことは正しかったのだと身をもって理解している。ちなみに、裁判所を辞めてすぐにコロナが始まり、潰瘍性大腸炎と直腸腫瘍が見つかり、直腸を切除して一時人工肛門となり、人工肛門を外した後は排便障害者となり、婚活どころではなくなったので、40歳を過ぎても私は独身のままである。
もしあの時、結婚を諦めていれば、すなわち人生を諦めたままでいれば、裁判所で奴隷としてではあるが、生きるための金には困ることなく生きていられたのになぁと、人生に希望を持ったことを後悔している次第である。
哲学は何の役に立つのか
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